Column 6


2011年07月07日(水)
中宮寺半跏思惟像

 中宮寺は、奈良・斑鳩の法隆寺の夢殿のすぐそばにある。

 思えば、私は二十歳の誕生日の朝を、何の情念に駆られてか、法隆寺の門前で迎えた。記念すべき人生の節目を、当時の私なりに演出したかったらしい。高校後半の頃は、明治~大正期の文学や、和辻哲郎、亀井勝一郎だの梅原猛だのをよく読んでいたので、その当時の価値観の中で、大和・斑鳩の里が選ばれたのだろう。その日は、とにかく仏像を観まくって終わった。歩き回った夏の日の行動の記憶と、仏像のお顔の記憶がスナップショットのように数枚浮沈してくるが、そのときの感情だのそれ以上のことは思い出せない。…記憶とはそういうものか。

 半跏思惟像とは、今更説明するまでもないだろうが、右足を左の膝にのせてて指先を頬に寄せ、人々の幸福について思いをめぐらせるお姿である。
 京都・太秦の広隆寺にも、有名な半跏思惟像があり、それらについて書かれている素敵なサイト(「二人の菩薩」)もあるが、私は中宮寺のそれ、特に右の写真のアングルからのお姿に惹かれて止まない。
 中宮寺の半跏思惟像については、弥勒菩薩ではなく如意輪観音像だとする見解もあるようだが、「椿 わびすけの家」というサイトさんに書かれている通り、当時にはその信仰はなかったはずであるから、弥勒菩薩様が正しいだろう。
 また、中宮寺の半跏思惟像については、その美しさを解析している「Jabro-Revorida-Agency」という大変興味深いサイトさんもあるが、ここまで来ると、「美とは何か」を考えざるを得なくなる。…かのドイツ観念論哲学者カントの「美とは目的なき合目的性である」を思い起こす。( …「こだま」さんというサイトのページが分かり易いかな? ) また、「不合理ゆえに我信ず」というサイトさんも面白いか。
 …引用ばかりさせて戴いたが、それほどに半跏思惟像については、多くの人によって語られている。
 
 好きなもの、惹かれるものというのは、もう、どうしようもないものだ。そして、自己の身体とかその自然性とか野生とか、あるいは物質性を認めるのとおなじようなところがある。
 何を読んだところで、惹かれているということに繋がらないし、その認め方は変わらない。。分析的すること・考えることと感じることの間にある溝は、物心二元論よろしく、決して埋まらない。それでもよいと思う。好きなものは、名状し難く、言葉を超えて、まさに「ここ数年?十数年?…20代後半から??の自分」には絶対的に好きなのである。
 以下、例がやや趣を異にしてしまうが、今回は、オチ?も引用にて。
 かつて、小説家でありフランス文学者であり評論家である澁澤龍彦が、画家の池田満寿夫と、スウェーデンの画家スワンベルクについて論ずる機会があったときに、「なんであんな甘っちょろい画家が好きなのだ。」と酷評され、「好きなものは好きなんだ。」と声を荒げて応えたので、池田は「うぐっ。」と次の言葉を呑み込んだという。 















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